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朝鮮通信使
その関連資料がユネスコ「世界の記憶」に登録されました!

平成29年10月30日(日本時間31日未明)に「朝鮮通信使に関する記録:17世紀~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
この中には、福岡県所蔵 「黒田家文書」の朝鮮通信使関連資料の15冊が含まれています。
なお、「黒田家文書」については、平成31年3月末に、福岡県立図書館から九州歴史資料館へ移管しました。

「世界の記憶」とは・・・

1992年に開始され「世界遺産」「無形文化遺産」にならぶユネスコの三大事業の一つです。世界的に重要な記録物への認識を高め、最もふさわしい技術を用いた保存を促進し、なるべく多くのひとがアクセスできるようにすることを目的としています。
主なものには「アンネ・フランクの日記」「ベートーベンの手書きの楽譜」などがあり、福岡県内では、日本で最初の登録となった「山本作兵衛炭坑記録・記録文書」があります。
国内では、この他「御堂関白記」「慶長遣欧使節関係資料」「東寺百合文書」「舞鶴への生還」が登録されており、今回、「朝鮮通信使に関する記録」が「上野三碑」と同時に登録され、全部で7件になりました。

朝鮮通信使とは・・・

通信使とは、信(よしみ)を使わす使節という意味で、江戸時代、朝鮮から日本への国書を持って派遣された外交使節です。第1回(1607年)から、主に将軍の代替わりを祝うため、第12回(1811年)まで派遣されました。
通信使は、三使(正使・副使・従事官)をはじめ、文人・医者・画家、約400人から500人で構成されました。日本では、幕府が総力をあげて接待の準備にかかり、特に福岡藩は、通信使の案内役として一行と同行する対馬藩を除き、沿道の諸藩の中で最初に接待を行うため、その責任は非常に重いものでした。

朝鮮通信使に関する記録: 17世紀から19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史

「朝鮮通信使に関する記録」の登録申請は、日韓両国の民間団体によって行われ、日本側の資料48件209点、韓国側の資料63件124点、合計で111件333点にも及びます。
これらの資料は3つに分類されています。

1.外交記録

朝鮮と日本の国家機関での公式記録や外交文書。

2.旅程の記録

朝鮮国首都の漢陽(ソウル)から日本の江戸まで往復約4,500kmに及ぶ路程での出来事や見聞したことを記した通信使の記録や、日本の沿道諸藩による饗応の記録。

3.文化交流の記録

通信使と日本の統治者から民衆にいたるまでの様々な階層との交流を通じで作成された筆談唱和集、詩文、書画など。

黒田家文書

「黒田家文書」は、福岡藩主黒田家に伝来した総計590件1,013点に及ぶ江戸中期以降の福岡藩庁の記録です。昭和39年に、旧藩主家黒田長礼氏より福岡県に寄贈され、福岡県立図書館に保管されたのち、平成31年3月末に九州歴史資料館に移管されました。
膨大な「黒田家文書」の中には、朝鮮通信使に関係する資料が50点含まれています。このうち、第11回(1764年)、徳川家治の将軍就任慶賀のため来日した際の記録である「朝鮮人来聘記」11冊と「朝鮮人帰国記」4冊が、「朝鮮通信使に関する記録」(2.旅程の記録)として「世界の記憶」に登録されました。

朝鮮人来聘記 11冊 宝暦11から14年(1761年から1764年)

第11回の朝鮮通信使を、往路、藍島(現新宮町相島)で応接した福岡藩の記録です。1から9巻(6巻は上下2分冊)と附録の11冊からなります。
宝暦11年からの準備、宝暦13年12月3日から26日まで島に滞在した通信使の饗応、一行の送り出し等について記されています。
このうち、第7巻は、天候不順のため島到着時に副使船が大破し、事後時の対応や使節への応接、福岡藩と対馬藩が協力して、不慮の事態に取り組む様子などを記述しています。

朝鮮人帰国記 4冊 宝暦14年(1764年)

帰国記は復路の記録で、1から2巻(2巻は上下2分冊)と「於大坂横死人之一件」の4冊からなります。
宝暦14年5月26日から28日まで藍島に滞在した一行の迎え入れと、送り出しについて記しています。また、任務終了後の関係者への褒美等に関する記録も含みます。
「於大坂横死人之一件」は、帰路、大坂において発生した通信使上官殺人事件をめぐり、事件の経緯や、旅程の延引等について記録しています。

「黒田家文書」は平成31年3月末に九州歴史資料館に移管されました。

以下は、平成29年10月のユネスコ「世界の記憶」登録時に作成した資料へのリンクです。

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