TOP >> 行事案内 >> 平成17年度 >> 展示 >> 柳原白蓮 >> 白蓮とその周辺の人々

白蓮とその周辺の人々

柳原白蓮(本名:宮崎Y子)は、大正・昭和に活躍した筑豊ゆかりの歌人です。その肉声が録音された貴重なレコードが発見されたり、九州観光推進機構が九州広域観光モデルルートの第一号として、白蓮をテーマにした観光ルート「"恋の華"柳原白蓮と"炭坑王"伊藤伝右衛門」を設定するなど、最近福岡で話題をあつめています。

そこで、柳原白蓮の生涯を中心にその時代背景や取り巻く人々についての展示を開催します。

白蓮は明治18年に柳原伯爵家に生まれ、華族学校を中退して16歳で北小路資武と結婚しますが、6年で離婚してしまいます。明治45年、27歳で九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚し、「筑紫の女王」と呼ばれますが、社会運動家・宮崎龍介と出会い、大正11年に新聞で「白蓮の絶縁状」を公開し、駆け落ちします。これが世にいう「白蓮事件」です。大正12年龍介と再婚し、一男一女をもうけます。この間歌人としては、佐々木信綱を師とし歌誌『心の花』に作品を発表し、歌集も刊行します。戦後は息子の戦死をきっかけに平和運動に参加し、昭和42年81歳で亡くなります。

伊藤伝右衛門は、万延元年(1860)穂波郡幸袋村(飯塚市)に生まれ、昭和22年87歳で亡くなりました。炭鉱の経営に成功して財を成し、嘉穂銀行の頭取を務めるなど地域経済の発展に貢献しました。飯塚には伝右衛門が建てた豪邸が残っており、「旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会」による保存運動も行われています。

宮崎龍介は、明治25年、孫文とも交流のあった革命家宮崎滔天の息子として生まれ、昭和46年78歳で亡くなりました。学生時代から社会運動に参加し、国家社会主義運動家として知られ、戦後は日中国交回復運動にも関わりました。生家は熊本県荒尾市に「宮崎兄弟資料館」として残っています。


福岡県立図書館
〒812-8651 福岡市東区箱崎1丁目41−12
092 (641) 1123  FAX 092 (641) 1127
mailto:kentosho@lib.pref.fukuoka.jp