マリリン・モンロー と ジョー・ディマジオ

 

1951年にディマジオが現役を引退して一年後の春、アスレチックスが、球団の売り出し作戦として新人女優のマリリン・モンローを球団の宣伝用写真として使い、ディマジオもその写真を

見た。「自分もあんな美人と一緒に写真を撮られてみたいもんだ。」

と冗談を言うと映画関係のプロモーターがモンローを紹介してくれ映画の都ハリウッドで会食をした。その帰りディマジオがモンローを送っていく途中、「野球のことは何も知らなくてごめんなさい」と謝るモンローに、「私こそ映画のことは何もしらなくて」と慰めた。

これが馴れ初めで54年1月に二人は結婚し、新婚旅行で来日した。

 だが日本で注目を集めたのはモンローばかりであった。日本での新婚旅行中に二人の亀裂が深まり、同年11月に離婚。わずか274日という結婚生活であった。

 

モンローが新しい恋に傷つき、あるいは心ないマスコミの攻撃にさらされて孤独に陥った時、いつも戻って行き、傷をいやす糧は、ディマジオの常に変わらぬ友情であった。

62年にモンローが謎の死を遂げると、かつて夫だった男の中でディマジオだけが、葬儀に参列し、生前の約束どおり20年間にわたって火曜日から土曜日まで毎日、ロサンゼルスにあるモンローの墓前に赤いバラを贈り続けた。

 

 ディマジオは死ぬまでマスコミには決してモンローのことを語ろうとはしませんでした。

あるとき、「ある女性誌が、あなたが話してくれたら5万ドル払うといっているが」と尋ねられたディマジオは即座に答えました。

 

「世の中にはカネにかえられないものがある。それは愛の思い出だ」

 



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