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筑 前 六 宿 を 通 っ た 人 々 |
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人物 |
旅行記・紀行文 |
略 歴 |
掲載資料名 |
飯尾宗祇 |
筑紫道記 |
連歌師飯尾宗祇は文明12年(1480)6月、大内政弘の招請をうけて周防山口に下ったが、9月6日山口を発して九州に下向した。「筑紫道記」(「宗祇筑紫紀 |
・『群書類従』第18輯 |
(1421〜1502) |
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行」「筑紫紀行」などの異称がある)はこの時のもので、山口へ帰着するまでが綴られている。 |
・『中世日記紀行集』 |
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大和田重清 |
大和田近江重清日記 |
大和田重清は常陸の佐竹義宣の家臣であり、豊臣秀吉の「唐入り」(大陸派兵、いわゆる朝鮮出兵)に従う為、肥前名護屋に在った。現存する「日記」は文禄 |
・「近世初頭 九州紀行記集』 |
( ? 〜1619) |
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2年(1593)4月28日から同年12月晦日までのものであり、重清が常陸から名護屋に至った状況については判然としないが、名護屋を発って水戸に戻る道 |
(九州史料叢書41) |
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中についてはこの日記によって知ることができる。 |
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ケンペル |
江戸参府旅行日記 |
ケンペルはドイツ人博物館学者兼医師で、オランダ東インド会社に船医として入社。元禄3年(1690)9月新商館長に従い商館付医師として来日する。滞日 |
・『江戸参府旅行日記』 |
(1651〜1716) |
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は元禄5年10月までであるが、この間二度、商館長に従って江戸へ上った。ヨーロッパに戻った後、著作「日本誌」をまとめるが、刊行は彼の死後である。その |
(東洋文庫303) |
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後オランダ語訳の系統が日本にも舶載され、さまざまなかたちで邦訳が試みられた。なかでも著名なものが志筑忠雄による「鎖国論」であり、ここから「鎖国」の |
・『ケンプェル江戸参府紀行』 |
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語が生まれた。 |
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(異国叢書) |
ツュンベリー |
江戸参府随行記 |
スウェーデン人ツュンベリー(トューンベリまたツンベルクとも記される)は医学・博物学を修めたのち、アムステルダムで著名な植物学者ビュルマン父子と親 |
・『江戸参府随行記』 |
(1743〜1828) |
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交を深め、これが機縁となって東インド会社所属のオランダ船に外科医として乗船。南アフリカのケープタウンで長期採集旅行を行い、のちバタビアに到り、そ |
(東洋文庫583) |
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こからオランダ船の主任医官として長崎に向かう。安永4年(1775)8月13日長崎出島に到着。翌春オランダ商館長の侍医として江戸参府に随行する。出島帰 |
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還後、その年の12月3日にバタビアに帰帆。母校ウプサラ大学の教授、学長を勤めた。著書に「喜望峰植物誌」「日本植物誌」などがあり、日本植物学を近代化 |
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した人物として知られる。 |
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古河古松軒 |
西遊雑記 |
古河古松軒は備中の人で、総社新本において家業の薬種業を営なみ、そのかたわらで医術を施した。通称を平次兵衛と言い、名は辰、字を子曜と称する。別 |
・『日本庶民生活史料集成』 |
(1726〜1807) |
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号を黄薇山人、竹亭ともいう。「古松軒」は家に老松があったことによる。地理を好んで各地を旅行し、多くの旅行記を遺している。 |
第2巻 |
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大槻玄沢 |
瓊浦紀行 |
大槻玄沢は江戸中期の医者で蘭学者である。名は茂質といい、字を子煥、磐水と号す。家は代々医者で父も一関藩の藩医であった。玄沢も医学を学んで江戸 |
・『近世紀行日記文学集成』 |
(1757〜1827) |
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に出、杉田玄白の門に入る。また前野良沢からオランダ語を学び、天明5年(1785)に長崎へ遊学して、本木良永らに師事することで、さらに蘭学の素養を広め |
第2巻 |
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ることになる。のち仙台藩の藩医となって江戸詰となり、京橋に蘭学の塾芝蘭堂を開いた。代表的な著作に「蘭学階梯」「重訂解体新書」などがある。 |
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内山真龍 |
出雲行日記 |
記主の内山真龍は元文元年(1736)に遠江国豊田郡大谷村に生まれ、庄屋を勤めた人物であるが、賀茂馬淵門下の国学者として知られる。この紀行は天明 |
・『近世紀行日記文学集成』 |
(1740〜1821) |
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6年(1786)1月に遠江を発し、京・出雲から九州へ赴いた折りのものである。 |
第2巻 |
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司馬江漢 |
江漢西遊日記 |
司馬江漢は延享4年(1747)江戸に生まれた。本姓は安藤、名は峻、字は君嶽、通称は勝三郎というが、江戸の芝新銭座に住したので、この名を称す。他に |
・『日本庶民生活史料集成』 |
(1747〜1818) |
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春波楼ともいい、晩年には「春波楼筆記」などの随筆をのこしている。水墨画、花鳥画、さらには浮世絵などを学んで、いずれもひとかどの腕前に達したという。し |
第2巻 |
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かし一般に知られるのは江戸時代の代表的な洋画家としての一面であろう。洋風の銅版画は油彩を試み、数々の作品をのこしている。当時盛んになった蘭学 |
・『江漢西遊日記』 |
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研究の影響をうけて、西洋の地理学や天文学にも興味をもち、啓蒙的な活動をもおこなった。 |
(東洋文庫461) |
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長久保赤水 |
長崎行役日記 |
常陸国多賀郡赤浜村に生まれ、生地にちなんで「赤水」と号した。農業の傍ら彰考館総裁名越南渓らに師事して朱子学・漢詩文を学び、また地理学・天文学な |
・『帝国文庫』第22編 |
(1717〜1801) |
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どの研鑽を積む。明和4年(1767)近村の漂流民引き取りの任に当たるため長崎往復の機会を得る。のち藩主の侍講となり、致仕ののち「大日本史」地理志 |
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の編輯に関わる。伊能忠敬に先駆けて経緯度を記した日本図の作成などもおこなっている。「長崎行役日記」は文字通り送還漂流民の引き取りのため、赤水が |
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水戸藩士に従って長崎に赴いた折の記録である。 |
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菱屋平七 |
筑紫紀行 |
菱屋平七は尾張の商人で、本名を吉田重房という。平七は幼少期に伯父に引き取られ、のちに見込まれて跡取りとなって、家業に専念。40歳ですでに隠居の |
・『日本庶民生活史料集成』 |
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身となり、「筑紫紀行」の序に従えば、あとは「遠遊に因りて井蛙の見聞を広めて、猶老後の一得あらむことをねかふ」とある。 |
第20巻 |
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野田成亮 |
日本九峰修行日記 |
野田成亮は日向佐土原の修験山伏で、泉光院と号した。成亮は日本全国の名山霊蹟を巡拝するため、文化元年(1804)9月3日に出発。6年2ヶ月をかけて |
・『日本庶民生活史料集成』 |
(1756〜1835) |
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諸国を廻った。長期におよんだ理由の一つは、これが托鉢による旅だったからである。 |
第2巻 |
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大田南畝 |
小春紀行 |
大田南畝は江戸時代中期の幕臣であるが、文人・学者として著名である。通称は直二郎と称し、若年時から狂詩文・狂歌・洒落本・黄表紙など活躍した。しかし |
・『大田南畝全集』第9巻 |
(1749〜1823) |
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ながら、寛政改革期以降は文筆活動を停止し、幕吏として専念する一方で研学に励む。この間「孝義録」の編纂や、勘定所古記録の取り調べなどに従った。さら |
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に享和元年(1801)大坂銅座、文化元年(1804)には長崎奉行所に各一年出役しており、幕吏としても非常に有能であったことが知られている。晩年は蜀山人 |
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の号で狂歌を読み、文政6年(1823)に75歳で没する。 |
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井沢蘭軒 |
長崎紀行 |
井沢蘭軒は近世後期の医者で孝証学者。備後福山藩士の家に生まれ、儒学・医学・本草学を学んだ。文化3年(1806)5月に長崎奉行に随行して長崎へ赴き、 |
・『鴎外全集』第17巻 |
(1777〜1829) |
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清の医師らと交わった。長崎から戻ってのち、父のあとをついで福山藩の侍医となる。頼山陽・官茶人らのほか、「小春紀行」の記主大田南畝とも深い親交があっ |
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た。蘭軒については森鴎外の史伝「井沢蘭軒」があり、ここでの「長崎紀行」も鴎外の著作に拠っている。 |
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伊能忠敬 |
測量日記 |
「大日本沿海興地全図」、いわゆる「伊能図」の作成に関わったことで知られる伊能忠敬は延享2年(1745)上総国山辺郡に生まれた。18歳の時下総佐倉の |
・『福岡県史資料』第1輯 |
(1745〜1818) |
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旧家伊能家に養子に入り、衰微していた家業の挽回する。寛政6年(1794)50歳の時に隠居し、幕府天文方の高橋至時に入門して、天文暦学を学んだ。寛政 |
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8年(1796)至時のすすめに従って蝦夷地の測量に出かけたが、のちにこれを全国的に展開し測量作業を文化13年(1816)まで続けた。この事業は当初自 |
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費で賄われていたが、次第に幕府の支援・援助を受けるものとなっていく。 |
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フィッセル |
フィッセル参府紀行 |
オランダ人フィッセルはライデン大学で古典語・文化人類学・中国語を修め、通訳官として来日。帰国後ライデン民俗博物館の学芸員となり、ついでライデン大 |
・『ヅーフ日本回想録・ |
(1875〜」930) |
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学教授となって日本語・日本学を担当する。 |
フィッセル参府紀行』 |
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(異国叢書) |
シーボルト |
江戸参府紀行 |
長崎オランダ商館付の医師シーボルト(ジーボルト)は南ドイツに生まれた医師・博物学者である。文政6年(1823)長崎に着任。翌年には鳴滝塾を開い |
・『江戸参府紀行』 |
(1796〜1866) |
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て、診療および医学研究、教育にあたった。文政9年には商館長の江戸参府に従う。文政11年、いわゆるシーボルト事件が起き、翌年日本を追放される。 |
(東洋文庫87) |
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高木善助 |
薩陽往返記事 |
「薩陽往返記事」を著した高木善助庸之は大坂天満の商人で、屋号を平野屋と称した。薩摩藩の天保改革を支えた十人両替平野屋五兵衛の分家筋にあた |
・『日本庶民生活史料集成』 |
( ? 〜1854) |
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る人物である。したがって高木善助の薩摩藩との関係も深いものがあり、彼の薩摩への往返は前後6回におよんでいる。 |
第2巻 |
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吉田松陰 |
西遊日記 |
吉田松陰は本名寅次郎矩方、二十一回猛士とも号す。長州藩の思想家・教育家として知られる。長州藩士杉百合之助の次男として生まれたが、叔父で藩の |
・『吉田松陰』 |
(1830〜1859) |
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山鹿流兵学師範を勤めていた吉田大助の養子となり、その家を継ぐ。嘉永3年(1850)、松陰21歳の折、平戸・長崎に遊学する。「西遊日記」はこの間の日 |
(日本思想体系54) |
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記である。 |
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川路聖謨 |
長崎日記 |
川路聖謨は豊後日田代官所属吏内藤氏の子として生まれるが、12歳の折幕府小普請組川路光房の養子となり、翌年の文化10年(1813)に家督を継ぐ。 |
・『長崎日記・下田日記』 |
(1801〜1868) |
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そののち御目見以上となり、非凡な才能を認められて、歴代の老中に重用された。すなわち、佐渡奉行・小普請奉行・普請奉行、さらに奈良奉行から大坂町奉 |
(東洋文庫124) |
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奉行にすすみ、嘉永5年(1852)には勘定奉行に任ぜられ、ついで海防掛を兼ねた。この翌年6月にはアメリカのペリーが浦賀にあらわれることになる。 |
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ついで10月にロシアのプチャーチンが長崎に来航するが、聖謨はこの時全権委員として長崎に派遣されている。翌年には伊豆下田でプチャーチンとの折衝 |
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を続け、ついに日露和親条約の調印に到る。しかしその後は日米通商条約調印についての勅許に失敗し、さらにいわゆる安政の大獄の中で、西丸留守居に |
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転じていたのを免職され、引退蟄居を余義なくされる。文久3年(1863)には外国奉行に返り咲くが程なくその職を辞し、慶応2年(1866)3月15日に自刃し |
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て果てている。 |
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河井継之助 |
塵壺 |
越後長岡藩士河井継之助が安政6年(1859)、33歳の折、備中松山(高梁)の山田方谷を訪ねてその門下となり、さらに長崎に遊んだ折の日記が「塵壺」で |
・『日本庶民生活史料集成』 |
(1827〜1868) |
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ある。その後継之助は郡奉行などを勤めて目覚ましい治績をあげて、異例の昇進を遂げ慶応3年(1867)に御年寄役(中老)、ついで翌4年(明治元年)には |
第2巻 |
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家老本職から家老上席に到り、軍事総裁となった。しかし同年7月官軍との抗戦で重傷を負い、8月16日南会津で没している。 |
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オールコック |
大君の都 |
オールコックは医師であり、イギリスの初代駐日公使を勤めた。広東領事などを経て、駐日総領事となり、安政6年(1859)来日。のちに公使に昇格する。文久 |
・『大君の都』 |
(1809〜1897) |
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元年3月(西洋歴1861年4月)香港へえ赴いたオールコックは4月長崎に帰着し、23日陸路を江戸へ向けて出発する。「大君の都」はこの時の見聞が記され |
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ている。 |
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桃節山 |
西遊日記 |
慶応元年(1865)九州を旅して「西遊日記」を著した桃節山は松江藩士である。名は好裕、通称文之助と称す。天保3年(1832)に松江藩医杉家の子として |
・『日本庶民生活史料集成』 |
(1832〜1875) |
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生まれたが、藩儒桃翠庵の養子となり、のちに藩校修道館の助教、ついで教授となった人物である。 |
第20巻 |
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