筑チク 前マエ 六ロク 宿シュク を 通トオ っ た 人ヒト 々
人物ジンブツ 旅行記リョコウキ・紀行文キコウブン 略                      歴リャクレキ 掲載ケイサイ資料シリョウ名メイ
飯尾イイオ宗ソウシ祇 筑紫チクシ道ドウ記キ  連レン歌ウタ師シ飯尾イイオ宗ソウシ祇ギは文明ブンメイ12年ネン(1480)6月ロクガツ、大内オオウチ政弘マサヒロの招請ショウセイをうけて周防スオウ山口ヤマグチに下クダったが、9月ガツ6日ニチ山口ヤマグチを発ハッして九州キュウシュウに下向ゲコウした。「筑紫チクシ道ドウ記キ」(「宗祇ソウギ筑紫チクシ紀オサム ・『群グン書ショ類ルイエン従ジュウ』第ダイ18輯シュウ
(1421〜1502) 行コウ」「筑紫チクシ紀行キコウ」などの異称イショウがある)はこの時トキのもので、山口ヤマグチへ帰着キチャクするまでが綴ツヅられている。 ・『中世チュウセイ日記ニッキ紀行キコウ集シュウ』
       
大和田オオワダ重清シゲキヨ  大和田オオワダ近江オウミ重清シゲキヨ日記ニッキ  大和田オオワダ重清シゲキヨは常ジョウ陸リクの佐竹サタケ義宣ヨシノブの家臣カシンであり、豊臣トヨトミ秀吉ヒデヨシの「唐カラ入イり」(大陸タイリク派兵ハヘイ、いわゆる朝鮮チョウセン出兵シュッペイ)に従シタガう為タメ、肥前ヒゼン名護ナゴ屋ヤに在アった。現存ゲンゾンする「日記ニッキ」は文禄ブンロク ・「近世キンセイ初頭ショトウ 九州キュウシュウ紀行キコウ記キ集シュウ』
( ? 〜1619) 2年ネン(1593)4月ガツ28日ニチから同年ドウネン12月ガツ晦日ミソカまでのものであり、重清シゲキヨが常ジョウ陸リクから名護屋ナゴヤに至イタった状況ジョウキョウについては判然ハンゼンとしないが、名護ナゴ屋ヤを発タって水戸ミトに戻モドる道ミチ  (九州キュウシュウ史料シリョウ叢書ソウショ41)
  中チュウについてはこの日記ニッキによって知シることができる。  
     
ケンペル 江戸エド参サン府フ旅行リョコウ日記ニッキ   ケンペルはドイツ人ドイツジン博物館ハクブツカン学者ガクシャ兼ケン医師イシで、オランダ東ヒガシインド会社ガイシャに船医センイとして入社ニュウシャ。元禄ゲンロク3年ネン(1690)9月ガツ新シン商館ショウカン長チョウに従シタガい商館ショウカン付ツキ医師イシとして来日ライニチする。滞日タイニチ ・『江戸エド参サン府フ旅行リョコウ日記ニッキ』
(1651〜1716) は元禄ゲンロク5年ネン10月ガツまでであるが、この間カン二度ニド、商館ショウカンチョウ長チョウに従シタガって江戸エドへ上ノボった。ヨーロッパに戻モドった後アト、著作チョサク「日ヒ本誌ホンシ」をまとめるが、刊行カンコウは彼カレの死後シゴである。その  (東洋トウヨウ文庫ブンコ303)
  後ゴオランダ語ゴ訳ヤクの系統ケイトウが日本ニホンにも舶載ハクサイされ、さまざまなかたちで邦訳ホウヤクが試ココロみられた。なかでも著名チョメイなものが志シ筑チク忠雄タダオによる「鎖国サコク論ロン」であり、ここから「鎖国サコク」の ・『ケンプェル江戸エド参サン府フ紀行キコウ』
  語ゴが生ウまれた。  
     (異国イコク叢書ソウショ)
ツュンベリー 江戸エド参サン府フ随行ズイコウ記キ  スウェーデン人ジンツュンベリー(トューンベリまたツンベルクとも記シルされる)は医学イガク・博物学ハクブツガクを修オサめたのち、アムステルダムで著名チョメイな植物ショクブツ学者ガクシャビュルマン父チチ子コと親オヤ ・『江戸エド参サン府フ随行ズイコウ記キ』
(1743〜1828) 交コウを深フカめ、これが機縁キエンとなって東ヒガシインド会社カイシャ所属ショゾクのオランダ船センに外科医ゲカイとして乗船ジョウセン。南ミナミアフリカのケープタウンで長期チョウキ採集サイシュウ旅行リョコウを行オコナい、のちバタビアに到イタり、そ  (東洋トウヨウ文庫ブンコ583)
  こからオランダ船センの主任シュニン医イ官カンとして長崎ナガサキに向ムかう。安永アンエイ4年ネン(1775)8月ガツ13日ニチ長崎ナガサキ出島デジマに到着トウチャク。翌ヨク春ハルオランダ商館ショウカン長チョウの侍サムライ医イとして江戸エド参サン府フに随行ズイコウする。出島デジマ帰キ  
  還メグ後ゴ、その年トシの12月ガツ3日ニチにバタビアに帰キコウ帆ホ。母校ボコウウプサラ大学ダイガクの教授キョウジュ、学長ガクチョウを勤ツトめた。著書チョショに「喜望峰キボウホウ植物誌ショクブツシ」「日本ニホン植物誌ショクブツシ」などがあり、日本ニホン植物学ショクブツガクを近代化キンダイカ  
  した人物ジンブツとして知シられる。  
     
古河フルカワ古松フルマツ軒ケン 西遊サイユウ雑記ザッキ  古河フルカワ古フル松マツ軒ノキは備ビ中チュウの人ヒトで、総ソウ社シャ新シン本ホンにおいて家業カギョウの薬ヤク種シュ業ギョウを営イトナなみ、そのかたわらで医術イジュツを施ホドコした。通称ツウショウを平ヒラ次ツ兵ヘイ衛エと言イい、名ナは辰タツ、字アザを子コ曜ヨウと称ショウする。別ベツ ・『日本ニホン庶民ショミン生活セイカツ史料シリョウ集成シュウセイ』
(1726〜1807) 号ゴウを黄オウ薇バラ山ヤマ人ヒト、竹チク亭テイともいう。「古松フルマツ軒ノキ」は家イエに老ロウ松マツがあったことによる。地理チリを好コノんで各地カクチを旅行リョコウし、多オオくの旅行記リョコウキを遺ノコしている。   第ダイ2巻カン
       
大槻オオツキ玄沢ゲンタク 瓊浦ウラ紀行キコウ  大槻オオツキ玄沢ゲンタクは江戸エド中期チュウキの医者イシャで蘭学者ランガクシャである。名ナは茂シゲ質シツといい、字アザを子コ煥、磐イワタ水ミズと号ゴウす。家イエは代々ダイダイ医者イシャで父チチも一イチ関セキ藩ハンの藩ハン医イであった。玄沢ゲンタクも医学イガクを学マナんで江戸エド ・『近世キンセイ紀行キコウ日記ニッキ文学ブンガク集成シュウセイ』
(1757〜1827) に出デ、杉田スギタ玄白ゲンパクの門モンに入ハイる。また前野マエノ良リョウ沢サワからオランダ語ゴを学マナび、天明テンメイ5年ネン(1785)に長崎ナガサキへ遊学ユウガクして、本木モトキ良リョウ永エイらに師事シジするスルコトことで、さらに蘭学ランガクの素養ソヨウを広ヒロめ   第ダイ2巻カン
  ることになる。のち仙台センダイ藩ハンの藩ハン医イとなって江戸エド詰ツとなり、京キョウ橋ハシに蘭学ランガクの塾ジュク芝シバ蘭ラン堂ドウを開ヒラいた。代表的ダイヒョウテキな著作チョサクに「蘭学ランガク階カイ梯ハシゴ」「重ジュウ訂テイ解体カイタイ新書シンショ」などがある。  
     
内山ウチヤマ真シン龍リュウ 出雲イズモ行イ日記ニッキ  記キ主シュの内山ウチヤマ真シン龍リュウは元文ゲンブン元年ガンネン(1736)に遠トオ江エ国コク豊田トヨタ郡グン大谷オオタニ村ムラに生ウまれ、庄屋ショウヤを勤ツトめた人物ジンブツであるが、賀茂カモ馬淵マブチ門下モンカの国学者コクガクシャとして知シられる。この紀行キコウは天明テンメイ ・『近世キンセイ紀行キコウ日記ニッキ文学ブンガク集成シュウセイ』
(1740〜1821) 6年ネン(1786)1月ガツに遠トオ江エを発ハッし、京キョウ・出雲イズモから九州キュウシュウへ赴オモムいた折オりのものである。  第ダイ2巻カン
       
司馬シバ江漢コウカン 江漢コウカン西遊サイユウ日記ニッキ  司馬シバ江漢コウカンは延享エンキョウ4年ネン(1747)江戸エドに生ウまれた。本ホン姓セイは安藤アンドウ、名ナは峻シュン、字アザは君クン嶽ミヤジダケ、通称ツウショウは勝カツ三郎サブロウというが、江戸エドの芝シバ新シン銭ゼニ座ザに住ジュウしたので、この名ナを称ショウす。他ホカに ・『日本ニホン庶民ショミン生活セイカツ史料シリョウ集成シュウセイ』
(1747〜1818) 春ハル波ナミ楼ロウともいい、晩年バンネンには「春ハル波ナミ楼ロウ筆フデ記キ」などの随筆ズイヒツをのこしている。水墨画スイボクガ、花鳥カチョウ画ガ、さらには浮世絵ウキヨエなどを学マナんで、いずれもひとかどの腕前ウデマエに達タッしたという。し   第ダイ2巻カン
  かし一般イッパンに知シられるのは江戸エド時代ジダイの代表的ダイヒョウテキな洋画家ヨウガカとしての一面イチメンであろう。洋風ヨウフウの銅版画ドウハンガは油彩ユサイを試ココロみ、数々カズカズの作品サクヒンをのこしている。当時トウジ盛サカんになった蘭学ランガク ・『江漢コウカン西遊サイユウ日記ニッキ』
  研究ケンキュウの影響エイキョウをうけて、西洋セイヨウの地理学チリガクや天文学テンモンガクにも興味キョウミをもち、啓蒙ケイモウ的テキな活動カツドウをもおこなった。  (東洋トウヨウ文庫ブンコ461)
     
長久ナガヒサ保ホ赤水アカミズ 長崎ナガサキ行ギョウ役エキ日記ニッキ  常ジョウ陸リク国コク多賀タガ郡グン赤アカ浜ハマ村ムラに生ウまれ、生地セイチにちなんで「赤水アカミズ」と号ゴウした。農業ノウギョウの傍カタワら彰アキコ考カンガ館カン総裁ソウサイ名ナ越コ南ナン渓ケイコクらに師事シジして朱子学シュシガク・漢詩カンシ文ブンを学マナび、また地理学チリガク・天文学テンモンガクな ・『帝国テイコク文庫ブンコ』第ダイ22編ヘン
(1717〜1801) どの研ケンキュウ鑽を積ツむ。明和メイワ4年ネン(1767)近チカ村ムラの漂流ヒョウリュウ民ミン引き取ヒキトりの任ニンに当アたるため長崎ナガサキ往復オウフクの機会キカイを得エる。のち藩主ハンシュの侍サムライ講コウとなり、致イタ仕ツカののち「大日本史ダイニホンシ」地理チリ志ココロザシ  
  の編ヘン輯シュウに関カカわる。伊能イノウ忠敬タダタカに先駆サキガけて経緯度ケイイドを記シルした日本ニホン図ズの作成サクセイなどもおこなっている。「長崎ナガサキ行イ役ヤク日記ニッキ」は文字モジ通トオり送還ソウカン漂流ヒョウリュウ民ミンの引き取ヒキトりのため、赤水アカミズが  
  水戸藩ミトハン士シに従シタガって長崎ナガサキに赴オモムいた折オリの記録キロクである。  
       
菱ヒシ屋ヤ平ヘイシ七シチ 筑紫チクシ紀行キコウ  菱ヒシ屋ヤ平ヘイ七シチは尾張オワリの商人ショウニンで、本名ホンミョウを吉田ヨシダ重シゲ房フサという。平ヘイ七シチは幼少期ヨウショウキに伯父オジに引き取ヒキトられ、のちに見込ミコまれて跡取アトトりとなって、家業カギョウに専念センネン。40歳サイですでに隠居インキョの ・『日本ニホン庶民ショミン生活セイカツ史料シリョウ集成シュウセイ』
  身ミとなり、「筑紫チクシ紀行キコウ」の序ジョに従シタガえば、あとは「遠トオ遊ユウに因ヨりて井蛙セイアの見聞ケンブンを広ヒロめて、猶ユウ老ロウ後ゴの一イット得トクあらむことをねかふ」とある。   第ダイ20巻カン
     
野田ノダ成セイ亮リョウ 日本ニホン九キュウ峰ミネ修行シュギョウ日記ニッキ  野田ノダ成セイ亮リョウは日向ヒュウガ佐サ土ト原ハラの修シュウ験ケン山伏ヤマブシで、泉イズミ光ヒカリ院インと号ゴウした。成セイ亮リョウは日本ニホン全国ゼンコクの名メイサン山ヤマ霊レイ蹟アトを巡拝ジュンパイするため、文化ブンカ元年ガンネン(1804)9月ガツ3日ニチに出発シュッパツ。6年ネン2ヶ月ゲツをかけて ・『日本ニホン庶民ショミン生活セイカツ史料シリョウ集成シュウセイ』
(1756〜1835) 諸ショ国クニを廻マワった。長期チョウキにおよんだ理由リユウの一ヒトつは、これが托鉢タクハツによる旅タビだったからである。   第ダイ2巻カン
       
大田オオタ南ナンメイ畝 小春コハル紀行キコウ  大田オオタ南ナンメイ畝は江戸エド時代ジダイ中期チュウキの幕臣バクシンであるが、文人ブンジン・学者ガクシャとして著名チョメイである。通称ツウショウは直ナオ二郎ジロウと称ショウし、若ワカ年ネン時ジから狂キョウシ詩シ文ブン・狂キョウ歌ウタ・洒落シャレ本ホン・黄キ表紙ヒョウシなど活躍カツヤクした。しかし ・『大田オオタ南ナン畝全集ゼンシュウ』第ダイ9巻カン
(1749〜1823) ながら、寛政カンセイ改革期カイカクキ以降イコウは文ブン筆ヒツ活動カツドウを停止テイシし、幕バク吏リとして専念センネンする一方イッポウで研ケンキュウ学ガクに励ハゲむ。この間カン「孝コウ義ギ録ロク」の編纂ヘンサンや、勘定カンジョウ所ジョ古フル記録キロクの取トり調シラべなどに従シタガった。さら  
  に享ススム和ワ元年ガンネン(1801)大坂オオサカ銅座ドウザ、文化ブンカ元年ガンネン(1804)には長崎ナガサキ奉行ブギョウ所ショに各カク一年イチネン出デ役エキしており、幕バク吏リとしても非常ヒジョウに有能ユウノウであったことが知シられている。晩年バンネンは蜀ショク山サン人ジン  
  の号ゴウで狂歌キョウカを読ヨみ、文政ブンセイ6年ネン(1823)に75歳サイで没ボッする。  
     
井沢イサワ蘭ラン軒ケン 長崎ナガサキ紀行キコウ  井沢イサワ蘭ラン軒ノキは近世キンセイ後期コウキの医者イシャで孝コウ証ショウ学者ガクシャ。備後ビンゴ福山フクヤマ藩士ハンシの家イエに生ウまれ、儒学ジュガク・医学イガク・本ホン草ソウ学ガクを学マナんだ。文化ブンカ3年ネン(1806)5月ガツに長崎ナガサキ奉行ブギョウに随行ズイコウして長崎ナガサキへ赴オモムき、 ・『鴎外オウガイ全集ゼンシュウ』第ダイ17巻カン
(1777〜1829) 清シンの医師イシらと交マジわった。長崎ナガサキから戻モドってのち、父チチのあとをついで福山フクヤマ藩ハンの侍サムライ医イとなる。頼ヨリコ山陽サンヨウ・官カン茶チャ人ジンらのほか、「小春コハル紀行キコウ」の記キ主シュ大田オオタ南ナン畝とも深フカい親交シンコウがあっ  
  た。蘭ラン軒ケンについては森モリ鴎外オウガイの史シ伝デン「井沢イザワ蘭ラン軒ケン」があり、ここでの「長崎ナガサキ紀行キコウ」も鴎外オウガイの著作チョサクに拠ヨっている。  
       
伊能イノウ忠敬タダタカ 測量ソクリョウ日記ニッキ  「大日本ダイニホン沿海エンカイ興コウ地チ全図ゼンズ」、いわゆる「伊能イノウ図ズ」の作成サクセイに関カカわったことで知シられる伊能イノウ忠敬タダタカは延享エンキョウ2年ネン(1745)上カミ総ソウ国コク山辺ヤマベ郡グンに生ウまれた。18歳サイの時トキ下総シモウサ佐倉サクラの ・『福岡フクオカ県史ケンシ資料シリョウ』第ダイ1輯1シュウ
(1745〜1818) 旧キュウ家イエ伊能イノウ家ケに養子ヨウシに入ハイり、衰微スイビしていた家業カギョウの挽回バンカイする。寛政カンセイ6年ネン(1794)50歳サイの時トキに隠居インキョし、幕府バクフ天文テンモン方カタの高橋タカハシ至イタル時ジに入門ニュウモンして、天文テンモン暦学レキガクを学マナんだ。寛政カンセイ  
  8年ネン(1796)至イタル時ジのすすめに従シタガって蝦夷地エゾチの測ソク量リョウに出デかけたが、のちにこれを全国ゼンコク的テキに展開テンカイし測量ソクリョウ作業サギョウを文化ブンカ13年ネン(1816)まで続ツヅけた。この事業ジギョウは当初トウショ自ジ  
  費ヒで賄マカナわれていたが、次第シダイに幕府バクフの支援シエン・援助エンジョを受ウけるものとなっていく。  
     
フィッセル フィッセル参サン府フ紀行キコウ  オランダ人オランダジンフィッセルはライデン大学ダイガクで古典コテン語ゴ・文化ブンカ人類学ジンルイガク・中国語チュウゴクゴを修オサめ、通訳官ツウヤクカンとして来日ライニチ。帰国後キコクゴライデン民俗ミンゾク博物ハクブツ館カンの学芸員ガクゲイインとなり、ついでライデン大ダイ ・『ヅーフ日本ニホン回想録カイソウロク・
(1875〜」930) 学ガク教授キョウジュとなって日本語ニホンゴ・日本ニホン学ガクを担当タントウする。   フィッセル参サン府フ紀行キコウ』
       (異国イコク叢書ソウショ)
シーボルト 江戸エド参サン府フ紀行キコウ  長崎ナガサキオランダ商館ショウカン付ツの医師イシシーボルト(ジーボルト)は南ミナミドイツに生ウまれた医師イシ・博物ハクブツ学者ガクシャである。文政ブンセイ6年ネン(1823)長崎ナガサキに着任チャクニン。翌年ヨクトシには鳴滝塾ナルタキジュクを開ヒラい ・『江戸エド参サン府フ紀行キコウ』
(1796〜1866) て、診療シンリョウおよび医学イガク研究ケンキュウ、教育キョウイクにあたった。文政ブンセイ9年ネンには商館長ショウカンチョウの江戸エド参サン府フに従シタガう。文政ブンセイ11年ネン、いわゆるシーボルト事件ジケンが起オき、翌年ヨクトシ日本ニホンを追放ツイホウされる。  (東洋トウヨウ文庫ブンコ87)
     
高木タカギ善ゼン助スケ 薩サツ陽ヨウ往オウ返ヘン記事キジ  「薩サツ陽ヨウ往オウ返ヘン記キ事ジ」を著チョした高木タカキ善ゼン助スケ庸ヨウ之ユキは大坂オオサカ天テン満マンの商人ショウニンで、屋号ヤゴウを平野ヒラノ屋ヤと称ショウした。薩摩サツマ藩ハンの天保テンポウ改革カイカクを支ササえた十人ジュウニン両替リョウガエ平野ヒラノ屋ヤ五ゴ兵ヘイ衛エイの分家ブンケ筋スジにあた ・『日本ニホン庶民ショミン生活セイカツ史料シリョウ集成シュウセイ』
( ? 〜1854) る人ジン物ブツである。したがって高木タカキ善ゼン助スケの薩摩サツマ藩ハンとの関係カンケイも深フカいものがあり、彼カレの薩摩サツマへの往オウ返ヘンは前後ゼンゴ6回カイにおよんでいる。   第ダイ2巻カン
       
吉田ヨシダ松陰ショウイン 西遊サイユウ日記ニッキ  吉田ヨシダ松陰ショウインは本名ホンミョウ寅トラ次郎ジロウ矩方カタ、二十ニジュウ一イチ回カイ猛モウ士シとも号ゴウす。長州チョウシュウ藩ハンの思想家シソウカ・教育キョウイク家カとして知シられる。長州チョウシュウ藩士ハンシ杉スギ百ヒャク合ア之ノ助スケの次男ジナンとして生ウまれたが、叔父オジで藩ハンの ・『吉田ヨシダ松陰ショウイン』
(1830〜1859) 山鹿ヤマガ流リュウ兵ヘイ学ガク師範シハンを勤ツトめていた吉田ヨシダ大助ダイスケの養子ヨウシとなり、その家イエを継ツぐ。嘉永カエイ3年ネン(1850)、松陰ショウイン21歳サイの折オリ、平戸ヒラト・長崎ナガサキに遊学ユウガクする。「西遊サイユウ日記ニッキ」はこの間カンの日ニチ  (日本ニホン思想シソウ体系タイケイ54)
  記キである。  
     
川路カワジ聖セイ謨 長崎ナガサキ日記ニッキ  川カワ路ミチ聖セイ謨は豊後ブンゴ日田ヒタ代官ダイカン所ショ属ゾク吏リ内ナイ藤トウ氏シの子コとして生ウまれるが、12歳サイの折オリ幕府バクフ小コ普フツウ請セイ組クミ川カワ路ミチ光ヒカリ房フサの養子ヨウシとなり、翌年ヨクトシの文化ブンカ10年ネン(1813)に家督カトクを継ツぐ。 ・『長崎ナガサキ日記ニッキ・下田シモダ日記ニッキ』
(1801〜1868) そののち御オ目メツケ見ミ以上イジョウとなり、非凡ヒボンな才能サイノウを認ミトめられて、歴代レキダイの老中ロウジュウに重用チョウヨウされた。すなわち、佐渡サド奉行ブギョウ・小コ普請フシン奉行ブギョウ・普請フシン奉行ブギョウ、さらに奈良ナラ奉行ブギョウから大坂オオサカ町マチ奉タテマツ  (東洋トウヨウ文庫ブンコ124)
  奉行ブギョウにすすみ、嘉永カエイ5年ネン(1852)には勘定カンジョウ奉行ブギョウに任ニンぜられ、ついで海ウミ防ボウ掛カを兼カねた。この翌年ヨクトシ6月ガツにはアメリカのペリーが浦賀ウラガにあらわれることになる。  
  ついで10月ガツにロシアのプチャーチンが長崎ナガサキに来航ライコウするが、聖セイ謨ボはこの時トキ全権ゼンケン委員イインとして長崎ナガサキに派遣ハケンされている。翌年ヨクトシには伊豆イズ下田シモダでプチャーチンとの折衝セッショウ  
  を続ツヅけ、ついに日露ニチロ和親ワシン条約ジョウヤクの調印チョウインに到イタる。しかしその後ソノゴは日米ニチベイ通商ツウショウ条約ジョウヤク調印チョウインについての勅チョク許モトに失敗シッパイし、さらにいわゆる安政アンセイの大獄タイゴクの中ナカで、西ニシ丸マル留守ルス居キョに  
  転テンじていたのを免職メンショクされ、引退インタイ蟄居キョを余ヨギ義ギなくされる。文久ブンキュウ3年ネン(1863)には外国ガイコク奉行ブギョウに返カエり咲サくが程ホドなくその職ショクを辞ジし、慶応ケイオウ2年ネン(1866)3月ガツ15日ニチに自ジ刃ハし  
  て果ハてている。  
       
河井カワイ継ツ之ノ助スケ 塵ジン壺ツボ  越後エチゴ長岡ナガオカ藩士ハンシ河井カワイ継ツ之ノ助スケが安政アンセイ6年ネン(1859)、33歳サイの折オリ、備中ビッチュウ松山マツヤマ(高タカ梁)の山田ヤマダ方ホウ谷タニを訪タズねてその門下モンカとなり、さらに長崎ナガサキに遊アソんだ折オリの日記ニッキが「塵ジン壺ツボ」で ・『日本ニホン庶民ショミン生活セイカツ史料シリョウ集成シュウセイ』
(1827〜1868) ある。その後ソノゴ継ツ之助ノスケは郡グン奉行ブギョウなどを勤ツトめて目覚メザましい治績チセキをあげて、異例イレイの昇進ショウシンを遂トげ慶応ケイオウ3年ネン(1867)に御オン年寄トシヨ役ヤク(中老チュウロウ)、ついで翌ヨク4年ネン(明治メイジ元年ガンネン)には   第ダイ2巻カン
  家老カロウ本職ホンショクから家老カロウ上席ジョウセキに到イタり、軍事グンジ総裁ソウサイとなった。しかし同年ドウネン7月ガツ官軍カングンとの抗戦コウセンで重傷ジュウショウを負オい、8月ガツ16日ニチ南ミナミ会津アイヅで没ボッしている。  
     
オールコック 大タイ君クンの都ト  オールコックは医師イシであり、イギリスの初代ショダイ駐日チュウニチ公使コウシを勤ツトめた。広東カントン領事リョウジなどを経ヘて、駐日チュウニチ総領事ソウリョウジとなり、安政アンセイ6年ネン(1859)来日ライニチ。のちに公使コウシに昇格ショウカクする。文ブン久キュウ ・『大君タイクンの都ミヤコ』
(1809〜1897) 元年ガンネン3月ガツ(西洋セイヨウ歴レキ1861年ネン4月ガツ)香港ホンコンへえ赴オモムいたオールコックは4月ガツ長崎ナガサキに帰着キチャクし、23日ニチ陸路リクロを江戸エドへ向ムけて出発シュッパツする。「大君オオキミの都ト」はこの時トキの見聞ケンブンが記キされ  
  ている。  
       
桃モモ節セツ山ヤマ 西遊サイユウ日記ニッキ  慶応ケイオウ元年ガンネン(1865)九州キュウシュウを旅タビして「西遊セイユウ日記ニッキ」を著チョした桃モモ節セツ山サンは松江マツエ藩士ハンシである。名ナは好コウ裕ユウ、通称ツウショウ文フミ之助ノスケと称ショウす。天保テンポウ3年ネン(1832)に松江マツエ藩ハン医イ杉スギ家イエの子コとして ・『日本ニホン庶民ショミン生活セイカツ史料シリョウ集成シュウセイ』
(1832〜1875) 生ウまれたが、藩ハン儒ジュ桃モモ翠スイ庵アンの養子ヨウシとなり、のちに藩校ハンコウ修道館シュウドウカンの助ジョ教キョウ、ついで教授キョウジュとなった人物ジンブツである。   第ダイ20巻カン