《 長 崎 街 道 》
 
 長崎街道とは豊前国大里(北九州市門司区)、もしくは小倉から、海外に開かれた窓口である肥前国長崎に至る道筋。起点については二説がある。肥前国内では三つのルートがあるが、いずれも長崎街道として公認されていた。
 正式名は長崎路であるが、肥前街道・豊前街道と一般にいわれ、福岡藩領では筑前六宿街道・冷水道ともいわれた。貝原益軒の『筑前国続風土記』、伊能忠敬の『測量日記』には、長崎街道とある。筑前六宿街道とは福岡藩内の街道に六つの宿がおかれていたことによる。
 長崎街道と宿駅の整備は島原・天草の乱(1637年〜38年)の前後の一連の鎖国令のころとされる。福岡藩内では秋月を経由する秋月街道がそれまでの主要な街道であった。
 明治維新後、明治3年(1870)には御茶屋が廃止された。さらに人馬や飛脚の継立業務を担っていた問屋場にかわって郵便局や通運会社が宿駅に設置されている。その後の鉄道の開通によって、長崎街道はその役割を終えることになった。
 
 
《 筑 前 六 宿 》
 
 筑前六宿とは、福岡藩領をとおる長崎街道にある黒崎宿(北九州市八幡西区)木屋瀬宿(北九州市八幡西区)、飯塚宿(飯塚市)、内野宿(嘉穂郡穂波町)、山家宿(筑紫野市)、原田宿(筑紫野市)をさしている。
 宿には御茶屋(本陣)・町茶屋(脇本陣)がおかれ、庶民は旅籠屋・木賃宿に宿泊した。筑前六宿は、長崎奉行・オランダ人・九州の諸大名などが通行し、九州内の宿駅では最も繁盛した。宿には代官とその下に下代がおかれ、宿駅・村方(地方)関係の業務を支配した。