寺山修司展

   − 福岡と寺山修司

 平成15年(2003年)7月1日[火]→8月31日[日]

 福岡県立図書館別館2階展示コーナー

 開館時間:9:00→19:00(日曜日は17:00まで)

 休館日:毎週月曜日、7月31日[木]  無 料




 寺山修司・てらやましゅうじ

 1935年12月青森県に生まれる。
 1954年「チエホフ祭」が「短歌研究11月号で特選となり巻頭に掲載。1956年、ネフローゼのため早稲田大学を中退。この頃、同級生だった山田太一と頻繁に文通。翌1957年、第一作品集『われに五月を』出版。以後、短歌、俳句、詩、劇作、シナリオ、評論と幅広いジャンルで活躍。
 1967年、横尾忠則、東由多加、九條映子(今日子)と演劇実験室「天井桟敷」設立。1971年、長篇映画第一作『書を捨てよ町へ出よう』がサンレモ映画祭グランプリをはじめ、海外でも高く評価された。
 1983年5月4日没。享年47歳。無宗教のため戒名はなし。

昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
    (遺稿・「懐かしのわが家」一部)

 福岡県立図書館

寺 

山 

修 

司 

展 

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
    身捨つるほどの祖国はありや

 

 

 

 

私は肝硬変で死ぬだろう。
そのことだけは、はっきりしている。
だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。
私の墓は、私のことばであれば、充分。
   (絶筆・「墓場まで何マイル?」一部)

 

 


 

 福岡と寺山修司

 たとえば、テレビ番組のコメンテーターとして、難解な哲学談義を語る時の、あるいはよくわからない例え話で世相を斬ったりする時の、青森弁の朴訥なイントネーションで聴衆を煙に巻く、寺山修司の姿を、まだ多くの方が覚えていると思います。

 そのくらい、『寺山修司』といえば『青森県』と、たちどころに結びつく存在ですが、その寺山修司と福岡県の間にどのような関係があるのでしょうか?

 まず、寺山修司の母・はつが、遠賀郡芦屋町の米軍基地で働いていました。

 戦争未亡人となった母は、戦後、青森県の米軍三沢基地に職を求めます。そのうちに、朝鮮戦争が勃発し、特需に沸く福岡の米軍基地にやって来たわけです。

 このことは、直接には寺山修司と関係がありませんが、母と別れた中学生の寺山修司少年は、映画館を経営する親戚の家に引き取られ、このことが後の芸術的才能を開花させる契機となったことはまちがいありません。

 もうひとつは、福岡の放送局との密接な関係です。

 1950年代に入って、「ラジオドラマ」というものが、新しい表現形態だと小説家・詩人・劇作家らが気づき、NHKをはじめとする各放送局も、「君の名は」や「鐘の鳴る丘」などとはまったく異なる、ハイブロウなラジオドラマを彼らに依頼するようになります。

 ネフローゼのために、1955年から4年間も入院を強いられた寺山修司は、同時期に世に出た谷川俊太郎・川崎洋などが「ラジオドラマ」の世界でいろいろな賞を受賞していることに影響を受けたのか、書き下ろした作品を全国の放送局に郵送します。

 この強引な売り込みに対して、唯一返事をおくったのが、ラジオ九州(現・RKB毎日放送)のディレクター、久野浩平氏です。久野氏は「ラジオドラマ」界では、すでに有名で、前述した谷川・川崎両氏の作品などで、数々の賞を得ていました。

 1958年10月14日15時20分、「ラジオホール」という番組で、寺山修司の第一作『ジオノ・飛ばなかった男』が放送されます。

 以後、約10年間ほど寺山修司は、ラジオやテレビのため、数多くの作品に脚本家や構成者の立場で参加しますが、この間で最大の出来事といえば、1960年2月から4月にかけての、ラジオドラマ『大人狩り』をめぐる騒動でしょう。

 今回の展示では、一地方局が放送したラジオドラマが全国的な波紋を広げた様子を分かりやすく提示し、寺山修司の、その後の演劇・映画路線にどのような影響を与えたのか、当館の所蔵資料を駆使してお見せしたいと考えています。

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