事例詳細

調査・質問内容

質問番号 0000026214
状態 受付済
質問日 2021/01/28

黒田官兵衛が荒木村重を説得するために有岡城へ行き、幽閉された時に村重の家臣と親しくなり、その家臣の子供を養子にしたという。その家臣が誰かを知りたい。

図書館からの回答

回答状態 公開済
公開日 2021/09/21
関連質問番号

以下の参考資料から、福岡藩筆頭家老三奈木黒田一成の父、加藤又左衛門(重徳)であることがわかる。

参考資料1『新訂黒田家譜 第1巻』p.62
孝高記に、「加藤又左衛門といふ者有。(略)兵庫頭と同じく荒木に属して、伊丹の城にありけるが、孝高の獄中に苦ミ給ふを見て、いたハしく思る。其間久しく懇にあひしらひける。孝高其情ふかき事を感じて、又左衛門に語りていはく、我若無ㇾ恙して本国へ帰りなば、貴方の男子を一人我が所に遣すべし。松壽が弟のごとくに養育すべしと、堅く約し給ひける。是に依て有岡の城没落の後、其子加藤玉松幼少なりしが、孝高の許に来りけるを、孝高是に黒田の姓をさづけ、子のごとくに愛育し給ふ。玉松後に三左衛門と号す。」とある。

参考資料2『益軒全集 5巻』p.53
参考資料1と同記載が所収。

参考資料3『新修福岡市史 資料編近世2』
「御家人先祖由来記」と「増益黒田家臣伝」が翻刻されている。その二つの資料によると、

p.3-4
「御家人先祖由来記」の「黒田三左衛門」に、「睡鷗、幼少の時の名玉松と申候、中比三左衛門と申候、筑前ニて美作と改、隠居剃髪して睡鷗と号、本姓は加藤也、其父加藤又左衛門は摂州の住人にて伊丹兵庫頭一族也、(略)孝高公ヲ城中ニ禁獄し留めて帰さす、其間 孝高公久しく御難儀被成候時、睡鷗父又左衛門 孝高公ヲ深くいたハり奉り候、(略)若我運を開き「無恙」本国に帰なは其方の子一人我に給候得、我子松壽弟として養育すへしと御契約被成候」とある。
p.56-57
「増益黒田家臣伝」の「黒田本性加藤美作一成伝」に、「黒田美作一成本性ハ加藤也、幼名玉松と云、年長して三左衛門と名附、筑前にて美作と改む、隠居し剃髪して睡鷗と号す、父ハ加藤又左衛門と云 荒木摂津守か家臣なり、(略)荒木同心せす孝高を留て禁獄し返さす、其時孝高滞留の間、加藤又左衛門懇志不浅、孝高又左衛門に仰けるハ、我其方の志謝しかたし、無恙帰らハ其方の子一人我に給候へ、養育すへしと約し給ふ」とある。

参考資料4『三奈木村史資料 第1巻』p.6-7
「黒田一義系譜」によると、「一成ハ、伊丹左衛門太夫重徳ノ第二子タリ。(略)伊丹一族率ネ村重ニ属シ、重徳モ其属客タリ。此時重徳本姓ニ復リ、加藤又左衛門ト称ス。(略)村重、孝高ヲ囚エ、之レヲ土窖ニ幽ス。重徳、実ニ村重カ命ヲ以テ之レヲ監守ス。重徳、甚タ孝高ノ智才ヲ慕ヒ且ツ其寃ヲ憫ミ、夫妻慇懃ニ接待シ、陰ニ衣食ヲ給シ善ク之レヲ視ル。(略)孝高ハ其帰ニ臨ミ、重徳夫妻カ、己カ難厄ヲ保護セシ効労ヲ謝シ、為メニ重徳カ一子ヲ養ヒ、永ク其恩ニ報センコトヲ約セラル」とある。

参考資料5『ふるさと人物誌』p.9
「三奈木黒田一成」の項があり、「孝高の監視役を命じられた村重の家臣・加藤重徳は、監視をしているうちに孝高の智才を慕うようになり、2人は心が通じ合うようになりました。孝高は「そなたは私の命の恩人。もし私がこの城から脱出し、再び活躍するときがきたら、そなたの一子を立派な武士として育てたい」と、重徳と約束したのです。」とある。


参考文献

タイトル 注記
新訂黒田家譜 第1巻 p.62
益軒全集 5巻 p.53
新修福岡市史 資料編近世2 p.3-4,56-57
三奈木村史資料 第1巻 p.6-7
ふるさと人物誌 p.9

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