事例詳細
調査・質問内容
質問番号 | 0000022749 |
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状態 | 受付済 |
質問日 | 2020/01/26 |
長野県生まれの島崎藤村がなぜ「椰子の実」という詩を書いたのかわかる資料はないか。
図書館からの回答
回答状態 | 公開済 |
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公開日 | 2020/03/31 |
関連質問番号 |
◆参考文献2『ふるさと文学館 第27巻 愛知』
p.601 「柳田国男の『藤村の詩「椰子の実」』(全集別巻三)によると、明治二十八年か九年、柳田がまだ二十一、二歳のころ、体を悪くして渥美半島の伊良湖崎でしばらく静養していたことがあった。するとその近辺に、時おり椰子の実が、潮の流れによって南から流れついた。帰京するとそれをすぐ近くに住んでいた藤村に話した。藤村はその話をもとに作詩したという。」の記述あり。
◆参考文献3『日本文芸鑑賞事典 近代名作1017選への招待 2 明治28〜36年』
p.354 「明治三十年(一八九七)の夏、のちの民俗学者柳田国男は、胸を病んで伊良湖岬(愛知県渥美半島にある岬)で静養していました。(中略) ある朝、国男は漂着した一個の椰子の実を見つけ、帰京したのち、親しい詩人の島崎藤村にそのことを話しました。藤村は、「君、その話を僕にくれたまえよ……」と言って、それをあたため、訳詩集『於母影』の中のドイツの詩人、カール・ベールマンの「思郷」(森鴎外訳)の「離郷遠寓椰樹国」(郷を離れて遠く寓る椰樹の国)云々を読んでヒントを得、詩に昇華させたのです。」の記述あり。
◆参考文献6『鑑賞現代詩 1 明治』
p.61-62 「この詩のもとになったのは、藤村自身でなく松岡(柳田)国男の体験でした。松岡国男は三十一年ごろ、病後の療養に三河の伊良湖岬に行き、そこで椰子の実の流れよるのを拾いました。のちに藤村は松岡からその話をきいて感動し、「松岡君、その話は私が頂きますよ」といったとのことです。しかしただそれだけがこの詩を生んだのではありません。藤村の詩には、森鷗外の訳詩集『於母影』に暗示されたものがよく見出されますが、この詩も、その中のドイツの詩人カール・ボエルマンの作を「思郷」と題して意訳した漢詩、離郷遠寓椰樹国(中略)から、主題、詩想を借りてきていることは、まず疑いありません。」の記述あり。
参考文献
タイトル | 注記 |
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島崎藤村研究 | |
ふるさと文学館 第27巻 | p.601 |
日本文芸鑑賞事典 2 | p.354 |
近代日本文芸読本 第1集 | |
日本近代詩鑑賞 明治編 | |
鑑賞現代詩 1 | p.61-62 |
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