事例詳細

調査・質問内容

質問番号 0000030873
状態 受付済
質問日 2022/05/21

平安時代および江戸時代から明治時代にかけて、庶民が米以外に主食として何を食べていたか知りたい。

図書館からの回答

回答状態 公開済
公開日 2024/03/15
関連質問番号

【平安時代】
◆参考資料1『図説日本庶民生活史』2
p.148「主食(中略)備荒貯蓄のために、前代から政府によって奨励され、栽培されてきたものは、大小麦・ひえ・きび・豆類などの雑穀から芋類にまで及ぶが、これらは米を補うものとして重視され、米とともに煮炊きして食べるのが普通であったと思われる。」の記述あり。

p.152「雑穀『延喜式』にあらわれた雑穀類は次のようなものであるが、多くは前代からひきついできたものである。すなわち大麦・小麦・粟・黍(きび)・篁子(みの)・薭(ひえ)・大豆・小豆・大角豆(ささげ)・白大豆・胡麻・麻など。また『和妙類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、麦類として麦・大麦・小麦・蕎麦(そば)・穬麦、粟類として粟・丹黍(あかききび)・秬黍(くろきび)・秫、豆類として大豆・鳥豆・䴏豆(そひまめ)・珂孚豆(いちこまめ)・大角豆(ささげ)・小豆・野豆(のらまめ)・〈艹+偏〉豆(あちまめ)、麻類としては胡・薭・篁子などが記されている。(以下略)」の記述あり。
※偏豆(あちまめ)のあちの字は正しくはくさかんむりに偏。
※篁の字は正しくはくさかんむりに皇。

【江戸時代から明治時代】
◆参考資料2『ビジュアル・ワイド江戸時代館』
p.143-144「(前略)武士や公家(くげ)は米を主食としたが、民衆の多くは雑穀(ざっこく)を用いた。(以下略)」の記述あり。

p.172「江戸時代になると、一日三回の食事が各階層に行き渡っていった。(中略)重い労働に従事する農村では、早くから*三食が普及したが、内容は雑穀(ざっこく)中心の質素なもので、米も雑穀と合わせた糅飯(かてめし)であった。たとえば、一八三〇年ごろの信濃(しなの)国伊那(いな)郡のある村では、冬の朝には大麦の香煎(こうせん)・蕎麦焼餅(そばやきもち)、昼は米四分に大根と大根の葉を干したものに稗(ひえ)を入れた糅飯、夕食では大根とつみ入れ(粉団子)が食べられていた。(以下略)」の記述あり。
「農家の糅飯  通常、農家では米だけの飯を食べることは少なく、雑穀や野菜あるいは芋(いも)などを混ぜた糅飯が食べられた。都市でも芋の糅飯は、下層の人々に重宝された。」の記述あり。
糅飯のカラー写真あり。

◆参考文献3『衣食住に見る日本の歴史』6
p.14「江戸(えど)時代の大多数の農民の食生活は、貧(まず)しいものでした。せっかく収穫(しゅうかく)した米も大部分が年貢(ねんぐ)としてとられてしまい、手元にはいくらも残りません。わずかに残った米も、正月とかお盆(ぼん)、祭(まつ)りの日などの特別なときに食べるだけで、ふだんは雑炊(ぞうすい)さえ口にできなかったようです。農民たちが日常食べていたものといえば、麦めしやいも類、粟(あわ)めし、稗(ひえ)めしなどの雑穀(ざっこく)ばかりでした。なかでも粟(あわ)や稗(ひえ)は米に代わる主食のようなもので、これにダイコンやカブ、大豆の葉などの野菜を加えて雑炊(ぞうすい)にして食べていたのです。山菜や木の実なども、農民たちにとってはたいせつな食料になっていました。(以下略)」

p.15「農民はこんなものを食べた」(カラー)
「穀類(こくるい) 山菜(さんさい)や野菜(やさい)のはっぱといっしょにして、おかゆとして食べることが多かった」「山菜(さんさい) 江戸(えど)時代は、野菜(やさい)の生産が不足していたためか山菜(さんさい)がとても多く利用された」の記述あり。ムギ、アワ、ヒエ、ウド、ヨモギ、ヨメナ、ナズナ、ワカチシャ、ツワブキ、カイコン、カブ、クズ、カタクリ、イモ、ダイズのカラーイラスト掲載あり。

◆参考資料4『食卓の日本史』
p35「(前略)江戸時代になっても幕府は百姓に、米は年貢に差し出して雑穀の雑炊を食べて過ごすように強制していた。(中略)明治二〇年ごろでも都市部では白いご飯を食べていたが、農村では麦、雑穀が六割、米が四割の混ぜ飯を食べていたのである。(以下略)」の記述あり。
NHKのドラマ『おしん』で、主人公が生まれた農家では米が足りず大根めしを食べていた(明治四〇年代)という内容にも触れている。

p144「当時の人口、三〇〇〇万人の九割は地方の農民であった。江戸幕府は年貢米を徴収しやすくするために農民が米を常食することを嫌い、麦や雑穀に野菜を混ぜた混ぜ飯を食べるよう強制している。年貢米は不作であっても定められただけ徴収されるから、農民は手許に残る飯米では食べていけないので、普段は雑穀の雑炊を食べて我慢し、ハレの日にはうどんやそうめん、団子、すいとん、などを食べていた。これに対して、江戸の町には贅沢な会席料理を楽しむ富裕な町人がいて、長屋の住民も白いご飯を食べ、時には鮨や天ぷら、蒲焼などを楽しむ余裕があった。食べることを楽しめる都会と食べることに苦労をしている地方農村との格差が大きくなった時代であった。(以下略)」の記述あり。

◆参考資料5『江戸の暮らし図鑑』
p185「(前略)江戸の場合は「白いご飯」が食べられました。これが特色です。地方や農村では主に雑穀や芋類が主食でした。普段は麦が九に対して米一を混ぜる混合米だとか、麦飯が一般的です。すりおろした山芋に味噌汁を加えたとろろ汁を麦飯にかけて食べたりもします。また日頃口にするのは「糧飯(かてめし)」といって混ぜご飯で、大根、さつま芋、アワ、ヒエ、キビなどを加えて少ない米を増量させる炊き込みご飯でした。農民にとって米は税として納めるものであり、米だけのご飯を食べられるのは限られた日のみでした。(以下略)」の記述あり。

◆参考資料6『日本の食文化』
p208「寛文八年二月(中略)米をみだりに食べてはならない―とあるように、日常食としてはきびしかったものの、物日、いわゆるハレの日の食物の第一は、祭儀と同様、庶民がふだん食べられなかった米を第一とし、材料は米にかぎらず、ムギやアワ、キビなどの雑穀もあるが、ふだんとは異なった調理法のもの、つまり煮るか蒸すかしたものではなく、蒸して餅(もち)としたり、浸(ひた)して粢(しとぎ)としたり、あるいはよく砕いて団子(だんご)としたもの、醸(かも)して酒(さけ)としたもの、一般に粒食に対する粉食が用いられ、ときには魚類や、ある種の野菜も食膳に供された。それでも、むかしは米の飯を炊いたり、餅を搗くことは、一年中でもごくごくかぎられた日だけであって、ふだんは思いもよらぬことであった。(以下略)」の記述あり。

参考文献

タイトル 注記
図説日本庶民生活史 2 p.148,p.152
ビジュアル・ワイド江戸時代館 p.143-144,p.172
衣食住に見る日本の歴史 6 p.14-15
食卓の日本史 p.35,p.144
江戸の暮らし図鑑 p.185
日本の食文化 p.208

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