事例詳細

調査・質問内容

質問番号 0000037214
状態 受付済
質問日 2024/12/03

質問内容 【レファ協行・レファレンス協同データベース用】0000036755を館内記録用として残し、こちらをレファレンス協同データベース用として登録。

近世の福岡博多で、時刻を告げる鐘や太鼓はあったか。

図書館からの回答

回答状態 公開済
公開日 2025/03/25
関連質問番号

参考資料1『新修福岡市史』特別編[3] 福岡城
p.73-74「古時打櫓」(こときうちやぐら)に、「貝原益軒は荒戸山からの眺望を叙述するなかで、「時鼓のこゑも、折々に聞えて、何となく人の心を驚かし、おこたりをいましむる心地そする」(『福岡県史資料』続四 六〇頁)と記し、「時報」を「太鼓」で告げていたことを伝えている。」とある。

p.74-75「時打櫓」に、「古時打櫓に置かれていた太鼓が移された結果、時打櫓と称されるようになったと考えられる。(略)時打櫓の管理者は御家預かりとなっている。(略)江戸では、徳川家康時代に明け六つ(午前六時頃)と暮六つ(午後六時頃)に「太鼓」で時を報じていたと伝えられる。二代将軍秀忠の時、「鐘」を撞いて昼夜十二時を江戸市中に報じた。(略)おそらく福岡城においても「時の太鼓」から「時の鐘」への変化があったと考えられる。」とある。


参考資料2『福岡城だより』2022年69号
p.10「刻(とき)の音」に、「「本丸裏御門」の西側に続いて「古時打櫓」(別名「太鼓櫓」)がありました。代々時打ちの名手であった伊之助に因んで「伊之助櫓」とも伝えられています。本丸御殿にある「時計之間で時係が和時計で時を計り、櫓2階の大太鼓(直径5尺、約1.5m)を打って刻を報じていました。(略)ここ福岡城でも、寛文4年(1664)三代藩主光之は城内の梵鐘を鋳直し(この時鐘は「福岡城の鐘」として直方市西徳寺に所蔵されている)、「時の太鼓」から「時の鐘」に移行しました。」とある。


参考資料3『福岡市博物館研究紀要』第三号
p.83-91「福岡城本丸の時鐘について」中、p.84に「今茲に筑前の国の君、松平光之公は有司(ゆうし)に命じ、鳧氏(ふし)をして洪鐘を改鋳せしめ、之を高楼に架け、而して十二の時を遠近に徇(となえ)しむ。(略)九乳(鐘の音)は遠きに響き、明宵(ひるよる)に辰(とき)を報ず。封城は旧しと雖も、声教は維れ新なり。」とある。


参考資料4『ふくおか経済』2003年3月号175号
p.14「福岡城で時を刻んだ鐘-直方市西徳寺の「梵鐘」」に、「このひびが入り使われていない鐘は、寛文四年に鋳造され、時計がなかった時代の人々に時を告げる役割を果たした「福岡城の鐘」と呼ばれる由緒ある鐘だ。割れてしまった現在では、その役目を終えたが、福岡城下の歴史を刻んだ鐘として福岡県指定文化財となった。」とある。また梵鐘の写真があり、その解説に「江戸時代の儒学者・貝原益軒(篤信)によって書かれた銘文には、年号のほかにもその時代を知る上で貴重な資料が残っている」とある。

参考文献

タイトル 注記
新修福岡市史 特別編[3] p.73-75
福岡城だより 2022年 69号 p.10
福岡市博物館研究紀要 1993年 p.83-91
ふくおか経済 2003年3月号 175号 p.14

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