調査・質問内容
| 質問番号 |
0000039070 |
| 状態 |
受付済 |
| 質問日 |
2025/09/17 |
福岡県は玉露や八女茶が有名だが、その昔は、釜炒り茶を作っていたようだ。その当時のことについて知りたい。
図書館からの回答
| 回答状態 |
公開済 |
| 公開日 |
2026/03/17 |
| 関連質問番号 |
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◆参考資料1『福岡県の茶業』昭和27年3月(マイクロ資料№6101)
p.27-30「第二項 茶葉の地域」「一、筑後地方の茶葉」の項に、「釜熬」といった単語が確認できる。
◆参考資料2『福岡の茶業』昭和47年2月
p.102-110「第2章 福岡県茶葉の動向」「1 茶生産の動向」「(1)八女茶の発展過程」の項に、「釜炒」といった単語が確認できる。
◆参考資料3『筑後市史』第2巻
p.386「茶園の拡大」に以下の記述あり。
「明治末期、静岡県からの技術を導入し、従来の日乾、釜炊茶製法から蒸製手もみ製茶へ転換」
◆参考資料4『八女市史』下巻
p.1002-1004「第二節 園芸」「一 八女茶」
p.1003-1004「茶もみ」に以下の記述あり。
「緑茶には、玉露・煎茶・番茶があってこれを本製といい、釜茶は生茶を摘んでそのまま釜に入れ、葉を焦げの出来るぐらいに焙(い)ってこれをもみ、もみ終わると日干しか陰干しにします。」
◆参考資料5『八女茶発祥600年』
p.145-165「第二部 八女茶史600年」「八女茶の由来」に以下の記述あり。
<室町時代~江戸時代初期>
p.145「室町時代中頃の応永年間、明国(現・中国)で禅の修行を終え帰国した禅僧・栄林周瑞が、(中略)持ち帰った茶の種子を村の有力者・松尾太郎五郎久家に与えるとともに、明式の茶の栽培と製茶技術を伝え広めたといわれています。」
p.148「周瑞禅師が茶の栽培法、喫茶法を八女地方に伝えた後、室町、安土桃山時代を通じ、地域や集落ごとに細々と釜炒り茶が生産されていたようです。」
<江戸時代中期~後期>
p.152「山内村ではすでに宇治方式の製茶を始めていましたが、外国に輸出するには釜製のほうが向くと知るや、いち早く釜製茶に切り替えたとも伝えられています。」
<明治時代>
p.154「明治16年(1883)に、茶の大半の輸出先であったアメリカが粗悪な茶を排斥する「贋茶輸入禁止令」を出したことで、(中略)当時の茶製造は、旧来からの未熟な天日干しを利用した黒製法や釜炒り製法で行われており、」
p.156-157「明治2年(1869)、山門郡瀬高町の清水寺住職・田北隆研は、(中略)明治4年(1871)に初めて葉を摘みとって釜炒り茶をつくり、(中略)この星野村における釜炒り茶から蒸し製手摘み緑茶への転換が、八女茶全体の発展につながりました。」
<大正時代>
p.159「日乾釜炒り茶の製造は存続しつつ、緑茶の機械式製茶工場の設立が始まります。」
◇参考URL1
松下智 著『日本茶、美味しさを究める : 健康とやすらぎのいっぷく』,雄鶏社,1992.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13297795 (参照 2026-01-17)
20コマ(p.26-27)「周瑞禅師は、茶の種子と共に製茶法も伝えており、当時の明国に広まっていた、水平釜の製法を伝授した様である。水平釜は、俗に平釜とも言われ、熊本県の矢部から、宮崎県三ヶ所方面にかけて分布する「青柳製釜炒り茶」を造る時の釜の呼称である。(中略)八女地方の現在の茶は、ほとんどが蒸し製の煎茶か玉露で、釜炒り茶はほとんど見られない。明治期から昭和初期頃までは、平釜による釜炒り茶が残っていた様である。」とある。
参考文献
参考URL
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